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こどもについて感じること・考えること、思うこと。
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最近になるまで、「心をこめて(何かをする)」という表現の意味が分からなかった。ところが、先日、文章を書いているときに「心をこめて(○○しましょう)」と書いてしまって、自分は「心をこめて」という表現で表される何らかの確実なイメージを持っている、ということに気がついた。

結論から言うと、「心をこめて」何かをするというのは、そのことに「集中している」という状態だとおもう。だから、「心をこめて話をする」のであれば、相対している相手に話をすることにとても集中している。集中しているがゆえに、「後で牛乳を買わなくちゃ」とか、「この人の髪留めきれいだな」とかではなく、「この人は私の話がどれほど分かっているだろうか」「より分かってもらえる表現を使おう」などの思いや「私が彼女だったら今の自分の話はどんなふうに受け取るだろう」などの共感がわき起こりつつ話をしている、そういう状態。

そのような集中状況というのは、自発的な行動でないと起こりにくいだろう。問題集をやっているとき、たいていは「もうすぐ終わる。終わったらゲームしよう」などと思いながらやっている。それはやらなきゃいけなくてやっているから、受け身でやっているからであり、心はこもらない。でも、「ここのところをよく知りたいからやろう」と自発的に取り組んだときは、その問題に集中して、「こうすればいいのか」「これはこういう意味があるのか」「おもしろい」など感じることができる。このとき、問題集が相手でも心はこもる。

必ずしもスタートは自主的でなくても、取り組むうちに心がこもる場合もある。よい仕事をする人というのは、与えられた仕事に自主的に取り組み、「心をこめて」遂行する人だろう。

ただし、あくまで「心をこめて(○○した)」は結果的な状態を記述するものであって、「心をこめて〜しましょう」という指示には適さない。そういう抽象的な指示は、一人前になるまでに10年とかかける師匠と弟子―—しかももう子どもではない―—との関係では効果を発揮することはあり得るけど。(とくに子どもへの)指示は具体的に、相手が分かるように、が原則だから。自戒をこめて。
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