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こどもについて感じること・考えること、思うこと。
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(1)のつづき。

じゃあそこで表出されている感情とは、なんだろう? 「上から目線」のいや~な「がんばれ」の場合は、「怒り」だろう。「こんなこともできないなんて許さない」という。これに対して、よい「がんばれ」に現されているのは、「共感」である。つまり、話者は、がんばっている人(そう、その人はすでにがんばっている!)と同じ体験をしているかのような痛みや苦しみ、やる気や希望を味わっているのだということを、「がんばれ!」と声を出すことで表出しているのだ。そこが、「がんばって」との距離感の違いになる。「がんばれ!」は、人に言っているようで、実は当事者のことばなのだ。

 実は、6歳くらいまでの子どもでは、本当に自分自身に向かって「がんばれ!」と言う。ジャンプするときに「ようし、がんばるぞ」「がんばれ、(自分の名前)くん!」「せーの!」などと声に出して自分を鼓舞したりする。そういうシーンでなくても、遊んでいる子がぶつぶつ独り言を言ってることも珍しくない。この現象は、発達心理学者にはけっこう注目されている。ピアジェさんは「自己中心的ことば」という名前をつけて、子どもが自分だけの世界から社会へと向かう過渡期の現象だとした。ヴィゴツキーさんは、逆に、外からやってきたことばを自分のために使うことができるようになる過渡期だと考えた。乳児にとって、ことばは、すべてが音を伴ってコミュニケーションに使うことば、「外言」である。幼児期を経て外言を使いこなすうちに、幼児は黙ったまま、考えることにことばを使うことができるようになる。これが「内言」。幼児期の独り言は、ことばが内言化する過渡期だと考えた。そのあと、外言と内言はそれぞれ別の道でどんどん豊かになっていく。

ところが、過渡期であるはずの独り言も消えない。大人でも、独り言を言う人はいるし(「よっこらしょ」なんて相当言うはず)、きっかけを作りたい気持ちの時にはわざと声に出して「ようしやるぞ!」と言ってみたり、やる気を出すために「やれ~ばでき~る」という曲を自分に聴かせたりする。思考することばである内言よりも、気持ちや身体を動かすには、耳できく言葉のほうが効果があるようだ。ならば、共感して心としては一体化している相手には自分に言うように「がんばれ!」と言いたいし、相手も共感状態にあれば、「命令された」とは取らずに、自分の声のように心を動かされるはず。そんな理想的な一体状態にあるかどうかが、「がんばれ!」の価値の有無を左右するポイントなのだろう。

運動会で走るリレー選手、あるいは、試合中のサッカー選手に降り注ぐ「がんばれ!」の絶叫。自分が走っている、プレーしているかのように感じるから彼らは叫ぶ。選手は責められていると感じるか、それとも模範的なコメントで語るように「力になった」か?

結論:「がんばれ!」は、がんばってほしい人と一体になって、<その人=自分>に向かって発する、励ましのアクション。したがって、「がんばれ」は「がんばる」の命令形という形をとっているけれど、よい「がんばれ」には、「がんばる」という語の意味はあまりない。

(でも、まぎらわしいよね……。)
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