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こどもについて感じること・考えること、思うこと。
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とりあえず、今の時点で私が目指すべきと思うPTAの姿を示しておきたいとおもった。
 
といはいっても、この考えのなかでPTAは消える。
 
原則は、
(1)子どものしあわせが最優先。
(2)親は、子どもの見本になるような考える力と実行する力をもつ大人でありたい。
 
●全保護者がかかわること
全保護者が出てくるのは、保護者会のみ。学校には、今までどおり保護者会を開いてもらう。その後で、茶話会をしたりする。一人100円くらい集めて、お茶菓子でも買って。それくらいなら、気兼ねなく持ち回りでやろうという保護者も多いだろう。
 
●保護者による活動
今までPTAの委員やサークルでやっていたことを、内容ごとに独立した<地域サークル>として行う。メンバーは保護者に限らず、OB・OGや地域の人たちを含める。
 
「しんぶんサークル」でも、「ベルマークサークル」でも、「バレーボールサークル」でも。保護者というくくりがないぶん、やりたい人・得意な人が継続して関われる。
 
当然、やりたい人がいないサークルは存在しないし、その活動もない。これは、ボランティア活動としてあたりまえのこと。細々と、長く続けて行こうねというサークルもあり、今年はメンバーがそろわないから休止というサークルもあり、今年度一回限りの期間限定サークルもあり。
 
資金源は、PTA会費がないから、基本的に自分たちで出す。公益性の高いサークルなら、許可を得て保護者や地域住民から寄付を集めたり、地域のおまつりに出店して活動費にするとかもありえる。
 
●本部が必要なら
何をするにも、学校に拠点となる部屋があったほうがいいなら、これまでのPTA室のような一室を利用しよう。そこにある備品はサークルが共同で買うことになるわけだけど、共同で何かしようとしたら、必然的に何やかやと雑務が出てくる。やっぱり「本部」みたいな、事務を担う人が必要だ、ということになったら、その人にはちゃんとバイト料を出したい。
 
たくさんサークルができるような学校だったり、もっとちゃんとサークル間を連携させて組織立った活動をしようとするなら、NPO法人を立ち上げるといいだろう。
 
 
以上。
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最近になるまで、「心をこめて(何かをする)」という表現の意味が分からなかった。ところが、先日、文章を書いているときに「心をこめて(○○しましょう)」と書いてしまって、自分は「心をこめて」という表現で表される何らかの確実なイメージを持っている、ということに気がついた。

結論から言うと、「心をこめて」何かをするというのは、そのことに「集中している」という状態だとおもう。だから、「心をこめて話をする」のであれば、相対している相手に話をすることにとても集中している。集中しているがゆえに、「後で牛乳を買わなくちゃ」とか、「この人の髪留めきれいだな」とかではなく、「この人は私の話がどれほど分かっているだろうか」「より分かってもらえる表現を使おう」などの思いや「私が彼女だったら今の自分の話はどんなふうに受け取るだろう」などの共感がわき起こりつつ話をしている、そういう状態。

そのような集中状況というのは、自発的な行動でないと起こりにくいだろう。問題集をやっているとき、たいていは「もうすぐ終わる。終わったらゲームしよう」などと思いながらやっている。それはやらなきゃいけなくてやっているから、受け身でやっているからであり、心はこもらない。でも、「ここのところをよく知りたいからやろう」と自発的に取り組んだときは、その問題に集中して、「こうすればいいのか」「これはこういう意味があるのか」「おもしろい」など感じることができる。このとき、問題集が相手でも心はこもる。

必ずしもスタートは自主的でなくても、取り組むうちに心がこもる場合もある。よい仕事をする人というのは、与えられた仕事に自主的に取り組み、「心をこめて」遂行する人だろう。

ただし、あくまで「心をこめて(○○した)」は結果的な状態を記述するものであって、「心をこめて〜しましょう」という指示には適さない。そういう抽象的な指示は、一人前になるまでに10年とかかける師匠と弟子―—しかももう子どもではない―—との関係では効果を発揮することはあり得るけど。(とくに子どもへの)指示は具体的に、相手が分かるように、が原則だから。自戒をこめて。
(1)のつづき。

じゃあそこで表出されている感情とは、なんだろう? 「上から目線」のいや~な「がんばれ」の場合は、「怒り」だろう。「こんなこともできないなんて許さない」という。これに対して、よい「がんばれ」に現されているのは、「共感」である。つまり、話者は、がんばっている人(そう、その人はすでにがんばっている!)と同じ体験をしているかのような痛みや苦しみ、やる気や希望を味わっているのだということを、「がんばれ!」と声を出すことで表出しているのだ。そこが、「がんばって」との距離感の違いになる。「がんばれ!」は、人に言っているようで、実は当事者のことばなのだ。

 実は、6歳くらいまでの子どもでは、本当に自分自身に向かって「がんばれ!」と言う。ジャンプするときに「ようし、がんばるぞ」「がんばれ、(自分の名前)くん!」「せーの!」などと声に出して自分を鼓舞したりする。そういうシーンでなくても、遊んでいる子がぶつぶつ独り言を言ってることも珍しくない。この現象は、発達心理学者にはけっこう注目されている。ピアジェさんは「自己中心的ことば」という名前をつけて、子どもが自分だけの世界から社会へと向かう過渡期の現象だとした。ヴィゴツキーさんは、逆に、外からやってきたことばを自分のために使うことができるようになる過渡期だと考えた。乳児にとって、ことばは、すべてが音を伴ってコミュニケーションに使うことば、「外言」である。幼児期を経て外言を使いこなすうちに、幼児は黙ったまま、考えることにことばを使うことができるようになる。これが「内言」。幼児期の独り言は、ことばが内言化する過渡期だと考えた。そのあと、外言と内言はそれぞれ別の道でどんどん豊かになっていく。

ところが、過渡期であるはずの独り言も消えない。大人でも、独り言を言う人はいるし(「よっこらしょ」なんて相当言うはず)、きっかけを作りたい気持ちの時にはわざと声に出して「ようしやるぞ!」と言ってみたり、やる気を出すために「やれ~ばでき~る」という曲を自分に聴かせたりする。思考することばである内言よりも、気持ちや身体を動かすには、耳できく言葉のほうが効果があるようだ。ならば、共感して心としては一体化している相手には自分に言うように「がんばれ!」と言いたいし、相手も共感状態にあれば、「命令された」とは取らずに、自分の声のように心を動かされるはず。そんな理想的な一体状態にあるかどうかが、「がんばれ!」の価値の有無を左右するポイントなのだろう。

運動会で走るリレー選手、あるいは、試合中のサッカー選手に降り注ぐ「がんばれ!」の絶叫。自分が走っている、プレーしているかのように感じるから彼らは叫ぶ。選手は責められていると感じるか、それとも模範的なコメントで語るように「力になった」か?

結論:「がんばれ!」は、がんばってほしい人と一体になって、<その人=自分>に向かって発する、励ましのアクション。したがって、「がんばれ」は「がんばる」の命令形という形をとっているけれど、よい「がんばれ」には、「がんばる」という語の意味はあまりない。

(でも、まぎらわしいよね……。)
「がんばれ」というのはなかなか特殊なことばである。だって、日常生活で命令形を使うことはとてもまれだ。怒りに我を忘れているとき以外は上品な私は(?)、家族や友人を含む他人に「行け」「~しろ」などと言うことはないし、家族も言わない(親しみをこめて、笑顔で言われるのでなければ、確実にケンカを売られていると受け取るだろう)。同じ理由で、小さな子ども相手にも、私は「がんばれ」と言うことに躊躇を覚える。命令形だよ? すごく、上から目線で、子ども相手にしても失礼だと思う。お父さんが怒り眉で「ほら、がんばれ!」と言っているのを見たりすると、あーやだなー、と思う。

子どもが何かをできるようになるとき、基本的に子どもは実は一人でできるようになる。でも、そばにいる大人はなぜか自分が何かせねばできないような気になったりする。それで、手助けしちゃったり、怒鳴ったり叩いたりしてやらせようとしたり、やり方を説明したり、励ましたりする。手助けしたら自分でやったことにならないからダメ。怒鳴ったり叩いたりは絶対ダメ。恐怖で従わせるのはとても即効性がある場合もあるけれど、長い眼で見たら有害でしかないから。説明したり、見本を見せたりといった具体的な提示は、唯一役に立つというくらい大事なこと。で、最後の励ますっていうのは、効果はさほどじゃないけど、ただ見守るしかできない状況では、無難な選択肢だ。だからたくさんの人がやる。というか、やってしまう。でも、それに使うのが「がんばれ」なわけで……

でも、じゃあ「がんばれ!」じゃなくて「がんばって」にしようとすると、それは全く「がんばれ!」の勢いがなくなってしまって、無意味なことばになってしまう。「がんばって」のほうが丁寧だけれど、こちらはあくまでがんばるもがんばらないもあなたしだいよ、という距離感を感じる。「がんばれ!」の価値は、その「!」語気を含めて初めて生じるものだ。そこをつきつめると、表現されているのは、ことばそのものの意味でなくて、そのことばを表象として表出される話者の「感情表出」のほうなのかもしれない。がんばれと言った時に、「思わず言ってしまった」という感覚を伴う場合があることも、その発言が意味内容の伝達ではなくて、感情の吐露である、ということを示している。

(つづく)
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