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こどもについて感じること・考えること、思うこと。
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前回と同じ文章をとりあげます。前回、子どものことを書く時には根拠を示せ的なことを言いましたが、今回の私の主張には根拠はありません。てへっ。
 
今回の問題は「子どもに呪いをかけるPTA活動」です。「の、呪い?……なんじゃそりゃ。そんなものかけるわけない。私たち大人が子どもにかけるのは健全な願いだけよ(キリッ)」と思われるでしょう。でも、私にはどうもそうは思えないことが日常生活のなかにもあり、この文章にもそれがちらっと見えているように思えます。
 
さて、まずは、この会長あいさつの流れを紹介します。
(ちなみに、この会長あいさつ文のタイトルは「親の姿は子供へのメッセージ」です。)
 
(1) 子どもには、「本質を見る目を養い揺らがない自己を持つ力」「論理的に自ら主体性を持って考え、俯瞰的に観る力」「他者の状況や気持に想いを馳せ共感する力」「言行一致、思いを行動に移せる力」「挫折や心の負担に負けない、物事を養う力」を養いたい

(2) 「大人も子供も侵されている『自分病』(自己愛の肥大)」がそれを阻んでいる。

(3) 早く得られる成果や楽したい気持ちを抑え、そうでないから得られるもののすばらしさを認識しなければならない。「そのためには……親自身が、他の大人たちと共に連帯し、力を合わせ、心を通わせ苦労を分かち合う姿を見せることです。」

(4) PTAはその基盤だという気概を持つことが子どもへのメッセージ
 
まず(1)が欲張りすぎてたいへん。聞いた端から反対の耳へ抜けて行ってしまいそうな要求の数々です。しかし、(2)のところで、あっは〜ん、「自分病」にかかっているというのは、PTA活動をやりたがらないみなさんのことね、と突然分かりやすくなってニヤリとしたくなります。
 
そして、(3)で……「苦労を分かち合う姿」を見せたい!?「苦労」に価値を置くとは……。
 
私の考えとしては、まず、活動自体に価値があることが一番大事。(人によって感じる価値は違うから、自分が取り組む価値があるかどうか、というそれぞれの視点によって複数の活動が支持されるはず。)で,自分が価値があると確信できる内容なら楽しんで活動できるはずだから、子どもに生き生きと楽しく活動する姿を見せられる。これが二次的な効果。なんぼ「子どものため」を標榜してても、嫌々活動するのは子どもにとってかえって有害!
 
確かに、苦労と恩返しというストーリーは、いい話として語られることも多々あります。でも、一話完結ではない現実においては、よいことも悪いことも、しばしば経験は直接それを与えた相手に返されるのではなく、次の世代へ受け継がれるということに、気をつけなければなりません。しかも、「食うために働く」というような分かりやすい苦労ではなく、中身が子どもに見えにくい苦労であれば、それは「恩返し」しにくいものとなり、先送りされてしまいます。意味の分からない苦労を親が背負っている姿は、子どもへの「呪い」のようなものです。「自分が苦労したんだから、あなたも苦労しなければならない」という連鎖を生む呪い。
 
(役員になったりしたことがない方は分からないかもしれませんが、PTA活動って、おまつりなどの子どもに直接関わりがあって子どもに見える活動ばかりではないんです。本部役員の仕事は、役員会等の会議、行事の中でも来賓の接待とか、子どもも一般父兄も参加しない行事の手伝いとか、講演会や講習会や……と、子どもに直接関わらないことがとても多いのです。)
 
子どもには訳の分からない苦労なんか背負わず、自分が価値があると信じることにまっすぐ取り組んでほしい。
 
まずは、親自身が。前を向く姿を、見せたい。


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東京都PTA連合会の広報紙が手元に届きました。会長あいさつの冒頭が目に入って、つい真剣に読んでしましました。すると、つっこみどころが満載。これは何か言わねばならない……という義務感にかられてしまいました。
私が主につっこみたいところは2点あるので、2つの記事に分けて書きます。

最初にお断りしておきたいのですが、私はこの記事を書いた方を個人的に攻撃するつもりはありません。書かれていることは実によく見聞きするタイプの内容で、だからこそ私はこの文章を代表としてとりあげたいのです。また、文章としてもよく書けています。収入にもならないのに、きっと時間をかけて書いたのだろうなあ……(涙)。ただ……とっても空疎です。よくこんな空疎なことをこれだけの文字数書けたなあと、そのことに敬意を表したい気持ちです。

さて、ひとつめは、「根拠がない」問題です。
私が引き込まれたその冒頭とは……

「昨今、子供にまつわる事件が多発してしまい、報道を見るのが辛く、心痛みます。いじめ、虐待、連れ去り等子供の安全にかかわる事件。日本という国は一体どうなってしまったのだろう、これからどうなっていくのだろうと、大きな不安を覚えます。」(以下、引用は「PTA東京」第24−1号です)

お天気の話まではいかなくても、実によく口にされるタイプの言説です。確かに子どもが被害者となった事件の報道は辛く、一件もなくなってほしいものではあります。でも、その不安は事実をとはかけはなれています。だって、他殺される子供の数は今の親世代が子どもだったころに比べて激減しているのです(管賀, 2012)(河合, 2006; 浜田・芹沢, 2004なども参照してください)。

さて、その後、子供の安全について話が進むのかと思いきや、

「今の時代、目先のもの、表面的なことに目を奪われるのではなく……」

と、子供につけさせたい5つの「力」の説明に移ってしまいます。あれっ? ああそうか、「子供関連事件の多発」というのは本当に「時候の挨拶」の役割を果たしているのだな,と納得しました。

ちなみに,それらの「力」の一つとして、「感覚的感情的に流されるのではなく『論理的に自ら主体性を持って考え、俯瞰的に観る』力」が求められています。

このことには大いに賛成です。「子供をめぐる事件が多発している」という感覚的捉え方、「大きな不安を覚える」と言って解決策は考えない感情的な物言いはやめてほしいものです。

その後、それらの力をつけられない原因として「自分病」に侵されているのだという話になります。そして、楽しようとせずに「私たちは、あえて、そうでないからこそ得られる“力”や“感動”、“自己成長”の素晴らしさを、強く認識せねばならない」と主張します。

想定する原因も根拠なく、目指すところも特定の感情状態にすぎないエンディングでした。「論理的に考える」が全くできていないという点で、子どもの見本になってほしくない文章です。モトになる事実の認識が間違ってるんだから考えられるはずがないんです。(ちなみに、現代の子どもたちは「自分病」からはほど遠い存在だという話もあります……(土井, 2008など))

とはいえ、私がわざわざこんなつっこみをするのは、単なる文章力とかの問題ではありません。子どものことを扱っている以上、書いたことから子どもへの影響がないとはいえないのです。子どもが狙われる犯罪が多くなっていると誤解したら、それを元に、過剰に子どもを囲い込んで自然な成長を疎外する可能性があります。最近の子どもが自分中心的だと誤解したら、子どもを必要以上に厳しくしつけようとして自己肯定感を損ねたりする可能性があります。子どもに悪影響を及ぼす可能性がある以上、子どもに関する物言いには注意深くなってほしいと思うのです。事実確認くらい、しましょう。ね。

<引用文献>
PTA東京(2012) 第24−1号 東京都小学校PTA協議会
管賀江留郎(2012) 幼児他殺被害者数統計 (http://kangaeru.s59.xrea.com/ G-Tasatu.htm) 少年犯罪データベース(http://kangaeru.s59.xrea.com/) (最終閲覧日2012.12.19)
河合幹雄(2004) 安全神話崩壊のパラドックス―治安の法社会学 岩波書店
浜井 浩一・芹沢 一也(2006) 犯罪不安社会 誰もが「不審者」? 光文社
土井 隆義(2008)友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル 筑摩書房

PTAは任意団体である。多くの学校で、子どもが入学したらその保護者は自動的に入会したことになって「会員」になってしまい、会員は「やらなければならない」という意識を持っているのが現状だけれど、本来は自分の意思で入会した会員から構成されるべきボランティア団体である。自動加入という慣習を廃し、PTAが任意団体であることを周知させ、きちんと入会の意思確認をして加入する制度に改めようという動きが、少しずつではあるが各地で起きはじめている(朝日新聞, 2012)。

これは、正しい。その通り!!である。
その方向へ活動している方々を、私はとってもリスペクトしている。

私の所属するPTAでも、自動加入になっている。任意団体としては明らかに間違っている。でも、私は……自分の学校で任意加入を推し進めるべく活動しなかったし、今のところするつもりもない。

理由を一言で言えば、「コストに見合う成果が得られる見込みがない。現在より悪い結果を生む可能性すらある」と思うから。

コストがかかるのは間違いない。一人の賛同者も得ていない状況からスタートして、執行部を説得し、動かそうとするならば、言い出しっぺにかかる苦労は相当なものになるだろうことは容易に想像できる(注1)。「それが正しいから」というだけでは人は動かない。ここが軽々クリア、ならやってみる価値はあるけれど、楽々ではないから、じゃあ、それだけやる価値があるのか、と考えないといけない。そこで、考えてみると……

苦労して任意加入制を導入したとして、おそらく、現状では、うちの学校ではほぼ全員加入するだろうという気がする(じっさいにやってみていないので何とも言えないといえばいえないというのは承知です)。川端(2007)によると、杉並区では自由加入を原則として入会は申込み制となっているが、100%の家庭が加入するという。2011年度に任意加入を周知させた岡山市立西小学校でも、加入率は95%と高い(川端, 2011)。私の居住する区では、実は教育委員会作成の冊子に加入が自由であることが明示してある(注2)。でも、私が任意加入について会話したことのある約40人の役員経験者のうち、そのことを認識していた人は0人。その冊子を見せても、「あっそう。」くらいで、ほとんど反応はなかった。任意加入であろうがなかろうが、実際には変わりないという意識を持っているからだろう。ちなみに、今年(2012年)の入学式で、PTA会長が保護者に向けたあいさつの中で、「PTAは任意加入の団体ですが、多数の参加者を期待しています」と言明したが、全家庭が会費を支払った。

整理して考えてみよう。任意加入を周知したとして、加入する保護者は……
(1) 現行のPTAに満足していて、自分も活動したいと思っている保護者
(2) 現行のPTAには満足していないが、何らかの学校に関わる活動はしたい保護者
(3) 「みんな入るから」「入らないと何があるかわからない」「会費を出さないのは後ろめたい」といった消極的理由や、本当は入らなきゃいけないのだろうと誤解している保護者
(4) あまりに学校やPTAに関心がなく、任意加入だという情報を手に入れていない保護者

印象だけれど、(1)のような「自分の」判断ができる人が、それほどいるとは思えない。(3)が圧倒的なのではないだろうか。任意加入が周知されたところで、現行の「PTA」という看板を背負っている限り、心理的容易さは入会することに高く、入会しないことに低い状況が変わるとは思えない。何かの拍子に非加入者が3割を超えれば、なだれうつように逆転する可能性はあるかもしれないが、とにかく長いものに巻かれる傾向は強い。

少なくとも私の所属するPTAでは、長い時間をかけて少しずつ「改善」して委員の活動は「負担軽減」していっており、多くの人が不満を抱えながらも、「助け合って」消極的に制度の維持に加担し、問題は見えづらい形に収められている。だからこそ「活動が『負担』と呼ばれること自体おかしい」なんて言う私は、ほとんど何も変えられずにはがゆい思いをしている。

ちなみに、自分の入学時に任意加入が周知されていたとして、自分は入会しただろうかと考えたら、(2)の理由で入会したと思う。いくら自分が忙しく、現行のPTA活動に問題があろうと、一部の活動を拒否したいとは思っても、入会自体をしない判断は、自分はしないだろうと思う。委員や役員の経験を通してよほど嫌な思いをした後ならば退会するかもしれないけれど、子どもが通う学校に対して、自分にできる手助けはしたいと思うし、保護者同士の関わりも持ちたいと思う。他に保護者団体がない以上、PTAへの入会/非入会というゼロイチの選択を迫られたら、入会「するしかない」という気持になり、入会すれば委員や役員の負担、納得のいかない活動内容等の問題に苦しむことになる。入ってからぶつかる数々の問題は、入り口が任意だろうが強制だろうが変わりない。入退会の自由は、PTAにまつわる数多くの問題を象徴するものであり、それを変えることにはロマンを感じてしまう。けれど、その先にある一つ一つの問題に対処する魔法の力は当然ながら持っていない。あくまで一つ一つ、言葉を尽くして時間をかけて気持をすり減らしながら闘って変えていくしかない。

任意加入になれば、理解を得にくい活動は淘汰されるという期待はあるけれど、それは、入会が任意であるだけでは起こらない。一定数の家庭が自主的な判断のもとに非入会を選び、かつ、(2)理由の加入家庭が(できれば非加入家庭も)改善のために声をあげてくれなければ何も変わらないのだ。やはり改革には今と同じ困難―—主張できる人材の乏しさ―—があるわけだ。

では、加入しないのはどのような保護者だろうと想像すると……
(1) 加入したいかしたくないかを考えて自主的に加入しないことに決めた保護者(理由はいろいろあり得る)。
(2) 経済的に苦しく会費を払うことがままならない保護者
(3) シングルペアレントであったり、病気、介護等の理由で時間的余裕がなく、既存のPTA活動に参加できず「他の会員に迷惑をかけている」「肩身が狭い」と感じている保護者
(4) 学校に関心のない、または学校を嫌っている保護者
(5) 虐待している、またはそれに近いほど子どもに関心のない保護者

根拠がゆるいのは否定できないけれど、私は、(1)の家庭はごく少ないと想像している。日本の・今の・小学生の保護者(特に母親)のなかで、非加入の決断をし、そのうえ少数派であることのリスクを引き受けて自律的であろうとする人、それだけの表現ができる人はほとんどいないだろう。それができる人ならば、すでに自主的に退会しているのではないかと思う(注3)。むしろ(2)(3)のような、今までも少数派であった家庭が、「身を引く」形で加入を見送り、その結果、さらに学校から遠ざかることになってしまったり、(4)(5)のような保護者の利益に与することになってしまうのではないか……と私は考えてしまう。

(2)~(6)のような家庭は学校と、あるいは保護者同士でつながっていることがとくに子どもにとって役に立つ可能性のある家庭である。意図せずともこれらを排除することになってしまってはいけない。PTAに入らないことで、保護者会や授業参観といった機会にも学校に来ることが心理的に負担になってしまったりして、より孤立してしまうことはじゅうぶんあり得ると思う。そんなネガティブな結果を招く可能性を、任意加入の徹底ははらんでいないだろうか?

非加入家庭がマイノリティである限り(そしてそれは間違いないと思う)、自律的に非加入を選べる家庭は少なく、活動を変えるといったポジティブな結果を生む可能性は低くなる。今、全員加入のPTAにある「あの人は委員をやらなくてずるい」というような相互監視の視線は、単に「あの人は加入してなくてずるい」という視線にシフトする。「非加入」という差別のレッテルだって生まれるかもしれない。

任意加入の実現を目指している方々は、PTAについての見識からも分かるようにある程度の知識や思考力があり、少数派になったとしても自分の判断で行動できる程度に自信のある人物だと思う(だからこそ、リスペクトしてる)。社会的強者と言ってもいい。そして、いろんな保護者と対話していれば、自分の「特殊さ」には気がついているんじゃないかと思う。どれほど多くの人が、長いものに巻かれたがり、消極的判断しか下さないか。少数派であっても意見を表明できる人が特殊でなくならない限り、トップダウンで制度を変えてもよい結果が生まれるという楽観は私にはできない。

だから、任意なんだよ、ということは、機会があるごとに、おしゃべりの範囲で言いふらしてはいくけど、組織を動かすようがんばるのは、私はやらない。

(注1) 具体的な例として、moepapa氏が体験した「PTA入退会自由へのバッシング」の記録。

(注2) 
江戸川区教育委員会(2010)に、「PTAは『子どもたちの健全な育成』を目指して自主的に組織された任意の団体です。会員は自由加入が原則です。学校の後援団体でも付属機関でもありません。民主的に運営され、他の団体の支配や統制、干渉を受けることはありません。」とある。

(注3) 退会することに法的な障害はないのだから、退会しようと思えば主張さえすればできるはず。なお、私の所属するPTAで少なくとも最近4年間の間(のべ約1000家庭)に、退会を言明した家庭はない。

文献
moepapa (2012) PTA入退会自由へのバッシング シングルパパはPTA会長 2012年4月1日 http://blog.livedoor.jp/moepapa516-pta/archives/53573274.html#more (最終閲覧日2012年6月9日)
江戸川区教育委員会(2010) すすめ!PTA PTAのすすめ~活動の参考に~ p. 1
朝日新聞(2012) どうする?PTA<上>「入退会は自由」 1月15日朝刊
川端裕人(2011) 校長のためのPTA学入門 第6回 月刊プリンシパル, 9月号 pp. 58-59
川端裕人(2007) PTA再活用論 中央公論新社
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